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【前半】「手を尽くしても、助けられなかった子がいた」――日本の移植医療を切り開いた医師が語る、子どもの命への責任

  • 執筆者の写真: Yumiko Hosoda
    Yumiko Hosoda
  • 2025年12月30日
  • 読了時間: 10分


学校法人金蘭会学園千里金蘭大学学長の福嶌教偉医師は、1999年2月、日本初の脳死臓器移植に関わりました。それから26年、ドナーへの敬意を貫き、日本の移植医療の基盤を作り上げてきました。

わずか8キロのポータブル小児用ECMO「バイオセイバー」の開発、地方の重症患者を救うドクタージェット搬送ネットワークの構築。すべての原動力は、子どもの命を救いたいという強い想いです。

移植医療にかける想いと、子どもの命を救うための取り組みについて話を伺いました。




和田心臓移植から始まった、医師への道


――福嶌先生が心臓外科医、そして移植医療に関わるようになった経緯を教えてください。


きっかけは小学校6年生の時に見た和田心臓移植のニュースでした。1968年8月8日のことです。当時、公立の中学校では坊主頭が決まりで、それが嫌で中学受験の勉強をしていたのですが、その夏休みに「心臓が取り替えられる」というニュースが流れてきて、本当に衝撃を受けました。

ところが患者さんが術後に亡くなった途端、報道が一変しました。それまで「神様」のように扱われていた和田先生に対しての扱いが突然変わってしまった。子どもながらに違和感を覚えましたね。


――その時、どんなことを思われたのですか?


亡くなった人から心臓をもらうというのは、そう簡単なことではないだろうと思いました。子ども心に「これは難しい問題なのだな」と感じました。

当時は脳死のこともよく分かっていませんでしたし、小学生ですから。人からもらうのが難しいなら、心臓を造ればいいじゃないかと考えました。周りの人からは受け入れてもらえませんでしたが、その時は本気で心臓を造れると思っていました。それで最初は理学部に行こうと思っていました。ところが父に話したら「理学部なんて行っても飯が食えないから医学部に行け」と言われて。それで医学部に進学しました。この時点では移植をやろうとは一度も思っていませんでした。


――医学部に入られてから、研究ではなく臨床医を目指すようになった理由を教えてください。


大学では大学4年の基礎配属で、センダイウイルスの細胞融合機能を発見した岡田善雄先生という有名な先生のもとで基礎研究をしていました。学生の身分で評価するおこがましいことですが、当時の研究室では基礎研究ばかりで、患者が見えてこないと思いました。

何のためにやっているのかと考えた時、やはり医学部に来たわけですから患者を見るべきだと思いました。それで外科医になることを決めました。目の前に倒れている人がいて、何でもできるのは外科医だろうと。阪大の第一外科に行けば、心臓外科、呼吸器外科、小児外科、消化器外科、全部の道がありましたから。


――外科の中でも、特に小児心臓外科を専門にされた理由をお聞かせください。


僕は子どもが好きでした。心臓を担当している時はほとんど子どもの患者ばかり診ていました。成人はあまり面白くなくて。やはり子どもは面白いですよね。難しい症例も全部診ていました。

一般病院に出た時も小児心臓外科の勉強をして、2年間でファロー四徴症まで手術をさせてもらいました。本当に恵まれた環境でしたね。ところがその中で、懸命に治療しても数日で亡くなってしまう子どもたちに出会ったのです。それがHLHS(左心低形成症候群)と拡張型心筋症でした。

どんなに良い手術をしても、どんなに一生懸命治療をしても、助けられない子どもたちがいました。これを助ける方法はないのかと、毎日考えていました。


――そうした中で、何か転機となる出来事があったのでしょうか。


ちょうどその時、ベイリー教授*が日本に来たのです。彼は世界で初めて新生児の心臓移植を成功させた先生です。「心臓移植をしたら助かる」ということを言ったので、僕はその時、もう心臓を作っている場合ではない、今目の前で死んでいく子どもたちを助ける医療を日本に作らなければいけないと心に決めました。

ただし、条件がありました。ドナーとその家族を大切にしながらやるということです。和田移植で感じた、愛する人の心臓を提供してくださる家族に大きな負担をかけないようにしなければならない。そこだけは絶対に譲れませんでした。この時の決意が、その後の私の人生を決定づけることになります。



1999年、日本初の脳死臓器移植


――ベイリー教授との出会いの後、移植医療の実現に向けてどのような活動をされたのですか?


まず移植医療を日本に根付かせるための活動を始めました。廣瀬一先生*という講師の方が移植部を作って、そこに入りました。彼はバーナード教授のところで最初に移植を学び、その後ニューヨークでも心臓移植をして日本に帰ってきていた、70年代に移植を経験している数少ない日本人の一人です。

そこで、僕には「日本で心臓移植ができるようにせよ」という課題が川島康生教授から与えられました。感染症対策を徹底したり、24時間検査ができる体制を整えたり、とにかく移植ができる環境を作り上げました。その後、心臓病の子どもを守る会の人たちと一緒に市民公開講座を13ヶ所ぐらいで開いて、法律制定に向けて活動を続けました。

その結果、1997年に臓器移植法が成立したのですが、その内容は意思表示カードがないと臓器提供ができないというものでした。しかし、15歳未満の子どもは意思表示ができない。つまり、子どもの臓器提供だけができない法律ができてしまったのです。心臓以外の臓器、肺も肝臓も膵臓も腎臓も、大人からもらうことができます。でも心臓だけは、ドナーが死ぬことになるので、親から子どもに移植することはできないわけです。

自分が助けたいと思っている心臓病の子どもたちを救えない法律を、自分が作ってしまったのです。あの時、本当にどうしようかと思いました。でも日本の一般の方々はまだ脳死のことも十分に理解していませんでしたから、やはりきちんと大人の心臓移植を始めて、社会に理解してもらった上で子どもの心臓移植を始めるべきだと考えました。幸い、附帯条項で3年後に見直すと書いてありましたから、それを信じて日本全体の移植医療の制度をどうするか、仲間と一緒に作り上げていきました。



――1999年2月に日本初の脳死臓器移植が行われましたが、その経緯を教えてください。



法律ができてから1年半ほど経った頃です。実はその1週間ぐらい前のことから話さなければなりません。高知県のある病院から電話がありました。20代の女性で拡張型心筋症の患者さんがいて、カテコラミンという強心剤が切れない状態だから何とかしてほしいという内容でした。

本来であれば私がすぐに駆けつけるべきでした。でも、行くことができなかった。そして、その患者さんは亡くなってしまいました。

その1週間後、高知県でドナーが現れたのです。私は、あの患者さんがいたからこそ、この臓器提供が実現したと思いました。主治医の先生たちは、自分たちが助けられなかった患者さんがいたことを知っています。その悔しさや無念さがあったからこそ、今度は臓器提供という形で誰かの命を救いたいと、真剣に向き合ってくださったからだと思うのです。

この経験から、それ以来、患者さんや病院から電話がかかってきたら、その日のうちに必ず行くことにしています。あの時の後悔があるからです。


――初めての摘出手術について、当日のことを詳しく教えてください。


その頃、いろいろなところから「1例目の摘出は外国で経験した人以外やってはダメだ」「外国人の医師を呼べ」という声が上がっていました。でも私たちは、日本人の手で始めなければこの医療は日本に根付かないと考えて、一切外国人を呼びませんでした。私と、鳥取大学で教授をしていた西村元延*という医師、彼はバドミントン部の私の後輩なのですが、彼と二人で摘出を行うことになりました。

当日、まず病院に着いてICUに行きました。最初に1週間前に亡くなった患者さんのカルテを見せてもらったのです。「助けられなくてごめんね」と心の中で言って、それからドナーの診察に向かいました。

ICUで患者さんを診察するというのは、本来その人を助けるためです。その人の心臓を摘出するために診察するわけではありません。だから診察しながら「この人を助けられないのだろうか」という思いがやはり出てきました。アメリカで心臓の摘出に行った時は、布が被せてあって胸だけが開いていて、「心臓だけ持って帰ってください」と言われるだけでした。でも日本では、診察から始まって、布を被せるところまで全部に関わって摘出するのです。

脳死は人の死であることに間違いはありませんが、それでも「本当にこの心臓を私が摘出して良いのだろうか」と考えました。



――その葛藤の中で、どのようにして決断されたのですか?


法律、そして意思表示カードの存在がありがたかったのです。そのドナー*の方は意思表示カードに記入されていました。脳死は人の死だと考えていて、脳死になったら臓器を提供すると意思表示してくださっていた。その証拠があったからこそ、私は摘出を決断できました。あの意思表示カードがなければ、私は多分あの時、摘出できなかったと思います。



ドナーへの敬意を大切にする移植医療


――この1例目の経験は、その後の先生のキャリアにどのような影響を与えましたか?


あの経験を通して、改めて強く思ったことがあります。レシピエント*、つまり移植を受ける方は移植医を選べます。でもドナーは選べないのです。どんな人が摘出に来るか分からない。だからこそ私は、ドナーに敬意を払える移植医療の体制を作らなければいけないと決意しました。

そういった現状の問題点を再認識し、こういうことを絶対に許してはいけないと思いました。





――そこで、福嶌先生はどのようなルールを作られたのですか?


日本では最初と最後に黙祷をすることにしました。これは私たちが始めたことです。やはり礼儀ということで、摘出の前に必ずミーティングをして、どんな方がどういう人生を生きてこられて、どういう経緯で臓器提供になったのかを共有します。その心臓を大事にしましょうというところから始めて、摘出手術をするのです。

もちろん、きちんとした服装で病院に赴くことも徹底しています。当たり前のことですが、こういった基本的なことが守られることが重要です。


――なぜそれほどまでにドナーを大切にされるのですか?


バーナード教授の1例目の経験*を聞いたことが大きいです。バーナード教授が世界初の心臓移植を行った時、ドナーは20代の女性でした。でもレシピエントが18日目に亡くなってしまった。その時、ドナーのお父さんは「これで本当にうちの娘は死んだと思った」と言ったそうです。

ドナーの家族は2回悲しむのです。最初は脳死になった時、そして移植を受けた人が亡くなった時。それは絶対にあってはいけないと思いました。だから、確実にこの心臓で患者さんを救えるという確信がなければ、移植を決めてはいけない。中途半端な判断で移植をして、もしレシピエントが亡くなったら、ドナーの家族をもう一度悲しませることになるのです。



――そのために、どのような制度を作られたのでしょうか。


メディカルコンサルタントという制度を作りました。移植に卓越した医師が必ずドナーのもとに行って、きちんと評価して管理する制度です。

最初、ドナーの提供の連絡があった時に、私は必ず全部見に行かせてほしいと言いました。周りからは「そんなもの、お前が一人見に行ったって心臓が良くなるはずはない」と言われましたが、実際に行って管理してみたら、心臓の状態が良くなったのです。心臓と肺の状態が良くなれば、他の臓器も全部良くなっていく。それが分かりました。

こうした取り組みを続けることで、ドナーに敬意を払い、ドナーの家族に対して誠実な移植医療を作っていかなければいけない。これは今でも私が最も大切にしていることです。


――現在の日本の臓器移植について、先生はどのようにお考えですか?


日本の臓器提供数は年間100例ほどです。アメリカは約4万例ですから、圧倒的に少ない。この差は日本人が臓器提供に消極的だからだと思われがちですが、そうではありません。

問題は救急医療の体制です。ドナー候補がいても気づかれなかったり、制度や体制に課題が多い。日本人の意識の問題ではなく、システムの問題です。だからこそ私たちがやるべきことがまだまだたくさんあります。ドナーに敬意を払い、確実に命を救う医療を続けていく。それが私たちの使命です。


【後半】では、わずか8キロの革新的なポータブルECMO「バイオセイバー」の開発秘話や、地方の重症患児を救う「ドクタージェット」による搬送ネットワークの構築、そして「全ての子どもを助けられる社会」の実現に向けた未来への展望について伺います。



インタビュアー 秋山 典男

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