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小児病棟サンタ訪問を実施しました
2025年12月、サンタクロースに扮したスタッフが千葉大学医学部附属病院の小児病棟を訪問しました。 毎年続けているこの取り組みでは、入院中の子どもたちにクリスマスプレゼントを手渡しでお届けしています。 当日は病棟スタッフの皆さまのご協力のもと、ベッド越しに声をかけ合いながらの訪問となりました。 限られた環境ではありましたが、一人ひとりの子どもたちと触れ合う中で、プレゼントを受け取った子どもたちは笑顔を見せてくれたり、少し緊張した表情を浮かべたり、好奇心いっぱいの眼差しでサンタやトナカイの姿を見つめてくれたりと、さまざまな反応を見せてくれました。 入院生活を送る子どもたちやご家族にとって、少しでも気持ちが和らぎ、クリスマスの雰囲気を感じていただける穏やかな時間となることを願い、病院と連携しながら、今後もこの活動を大切に続けてまいります。
1 日前


心臓移植の歴史 【30】移植の直前で止まった試み
章30: 移植の直前で止まった試み 1966年5月、カントロウィッツは重度の心疾患を持つ男児を見つけ、数週間後にはオレゴンの病院が無脳症の乳児を ドナー として提供する申し出を行った。その赤ん坊は飛行機でニューヨークまで搬送された。 6月30日の朝、ドナーの心臓は停止し、手術準備が急がれたが、再拍動を開始するには酸素不足の時間が長すぎた。カントロウィッツは手術を断念せざるを得なかった。その後も提供可能な乳児は現れたものの、適切な受け手が見つからず、次の挑戦は翌年の終わりまで待たねばならなかった。 【用語解説】 ドナー(どなー) 移植術で、臓器を提供する側の人をドナーと呼びます。一方、臓器を受け入れる側の人をレシピエントと呼びます。
1月11日


【後半】「手を尽くしても、助けられなかった子がいた」――日本の移植医療を切り開いた医師が語る、子どもの命への責任
学校法人金蘭会学園千里金蘭大学学長の福嶌教偉医師は、1999年2月、日本初の脳死臓器移植に関わりました。それから26年、ドナーへの敬意を貫き、日本の移植医療の基盤を作り上げてきました。 わずか8キロのポータブル小児用ECMO「バイオセイバー」の開発、地方の重症患者を救うドクタージェット搬送ネットワークの構築。すべての原動力は、子どもの命を救いたいという強い想いです。 移植医療にかける想いと、子どもの命を救うための取り組みについて話を伺いました。 <【前半】はこちらから> 小児の命を救う技術開発 ――現在の日本における小児用人工心臓の技術水準と普及状況について教えてください。 小児用人工心臓の大きな課題は、サイズと血流量でした。子どもの体は小さいですから、機械も小型化しなければいけない。でもただ小さくすればいいわけではなく、必要な血流を確保しながら、子どもの体に負担をかけない設計が求められます。 そしてもう一つ、搬送の問題がありました。以前のエクスコアやニプロといった機械は約100キロもあって、搬送するのが本当に大変でした。この20年ほどで技術が進
1月9日


心臓移植の歴史 【29】小児移植の可能性とアドリアン・カントロウィッツの挑戦
章29: 小児移植の可能性とアドリアン・カントロウィッツの挑戦 同時期、ブルックリンの外科医アドリアン・カントロウィッツは、子犬への心臓移植で目覚ましい成果を上げていた。小さな心臓への手術にもかかわらず、多くの犬が手術後も生存し、数ヶ月に及ぶ生存例も見られた。彼は、これは子犬の免疫システムが未発達で異物への反応が鈍いからだと考えた。 この観察は、小児への心臓移植の可能性を示唆するものだった。1966年、彼は人間の乳児に移植を行う準備が整ったと判断した。候補となる乳児は重度の先天性心疾患を抱えており、他に治療法がない状態で、寿命は数日から数週間と見積もられていた。カントロウィッツは、臓器提供者として“ 無脳症 ”の乳児に限定することにした。
1月4日


【前半】「手を尽くしても、助けられなかった子がいた」――日本の移植医療を切り開いた医師が語る、子どもの命への責任
学校法人金蘭会学園千里金蘭大学学長の福嶌教偉医師は、1999年2月、日本初の脳死臓器移植に関わりました。それから26年、ドナーへの敬意を貫き、日本の移植医療の基盤を作り上げてきました。 わずか8キロのポータブル小児用ECMO「バイオセイバー」の開発、地方の重症患者を救うドクタージェット搬送ネットワークの構築。すべての原動力は、子どもの命を救いたいという強い想いです。 移植医療にかける想いと、子どもの命を救うための取り組みについて話を伺いました。 和田心臓移植から始まった、医師への道 ――福嶌先生が心臓外科医、そして移植医療に関わるようになった経緯を教えてください。 きっかけは小学校6年生の時に見た和田心臓移植のニュースでした。1968年8月8日のことです。当時、公立の中学校では坊主頭が決まりで、それが嫌で中学受験の勉強をしていたのですが、その夏休みに「心臓が取り替えられる」というニュースが流れてきて、本当に衝撃を受けました。 ところが患者さんが術後に亡くなった途端、報道が一変しました。それまで「神様」のように扱われていた和田先生に対しての扱いが突
2025年12月30日


心臓移植の歴史 【28】隠れた進展と研究者たちの努力
章28: 隠れた進展と研究者たちの努力 心臓移植を志す外科医たちの表立った進展は少なかったが、その背後では重要な研究が着実に進められていた。拒絶反応の管理が改善されたことにより、実験動物の生存期間は飛躍的に延びた。 リチャード・ロウワーは、強力な 免疫抑制剤 の使用により拒絶反応を抑える試みを開始し、必要に応じて投与するアプローチを採用した。また、彼とシャムウェイは共同研究により、ある動物に新しい心臓を移植し、それを1年以上生存させることに成功した。 ロウワーはその後、1965年にバージニアへ移り、ジェームズ・ハーディの研究とは対照的な手術に挑んだ。人間の心臓をチンパンジーに移植するという試みだった。世間の反発を恐れて公表は控えられたが、この手術は大きな成果だった。初めて、人間の拍動する心臓が故意に止められ、取り出され、別の生物の体内に移植されて再び鼓動を始めた。チンパンジーは数時間生存し続けた。 【用語解説】 免疫抑制剤 体の持つ免疫力を抑えて、移植した臓器に対する拒絶反応を抑える薬剤のこと。
2025年12月28日


2025年度 助成活動に採択いただきました
この度、公益財団法人 小林製薬青い鳥財団ならびにパルシステム千葉コミュニティ活動助成基金より、2025年度の助成をいただくことが決まりました。 いただいた助成金は、ハートキッズ教室や支援プログラムの充実に、大切に活用させていただきます。 先日、代表の杉本が青い鳥財団の贈呈式・交流会に参加してまいりました。 贈呈式では全国の様々な分野で活動する団体の皆さまと一堂に会し、交流を深める貴重な機会をいただきました。こうして得られたつながりを、これからの活動にも生かしてまいります。
2025年12月22日


【イベントレポート】「ハートキッズ教室2025 in さいたま」が開催されました
2025年11月22日、埼玉県では初めてとなる「ハートキッズ教室」を、さいたま市青少年宇宙科学館にて開催しました。小学生から高校生までのお子さんと保護者の皆さまにご参加いただき、心臓のしくみを学ぶワークや縫合体験など、医療の世界に触れるひとときを共有しました。 参加した子どもたちと保護者から、たくさんの声が届いています。 今回はその一部をご紹介させていただきます。 子どもたちの声 お医者さんは、いつもこんなにむずかしい手術をしてるんだと学びました。 100人に1人が心臓病で、医者だけじゃなくいろいろな人たちが医療にたずさわっているということがわかった。 心臓病の人が100人に一人という人数が意外に身近で驚きました。術中はこんなに分厚い服を着て、暑い中命を救っているのがかっこいいと思いました。 友達に心臓病の人がいて、あたたかい目で見守ってあげたいと思った。ペーパークラフトとシリコンの模型でわかりやすかった。 100人中1人を見つけたらあたたかい目でみていきたいと思う。手術の難しさがわかった。心臓移植ということも少し知れた。 他のイベントにも参加し
2025年12月22日


心臓移植の歴史 【27】ハーディの葛藤とその後の進展
章27: ハーディの葛藤とその後の進展 ハーディはこの移植手術を行うまで、長い間悩み苦しみ、同僚たちからもアドバイスを仰いだ。アメリカ国内では、心臓移植に対する強い敵意が渦巻いており、外科医や一般市民の多くから非難の声が上がった。20年後に書かれた彼の回顧録には、「家族と死別したかのようだった」と記されており、友人たちでさえ彼のもとを訪れても肺移植や心臓移植の話題を避けるようになっていた。彼が“タブー”を破ったことは明白だった。ハーディは、社会の受け入れ態勢が整うまで、2人目の患者に同様の手術を行わないことを決意した。 その頃、スタンフォード大学では2000マイル離れた場所で、ノーマン・シャムウェイが同様の結論に達していた。彼もまた、心臓移植の進展は社会的受容と倫理的成熟が必要不可欠であると理解していた。
2025年12月21日
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